Ⅷ. Aはなぜ「電動椅子」に固執するか。

Aがなぜ家庭用電気マッサージ機器を「電動椅子」と呼称するか。
Bは、管理組合に苦情処理を依頼した文書で、マッサージ機のことを、「電気マッサージ機」と記した。この文書の中でも触れたことであるが、Aのご主人が生前に、時折家庭用電気マッサージ機器を使用していた。実物を見たことも持っていると聞いたことはなかったが、ショッピングセンターなどの店頭で試用 した電動マッサージチェア・デモ機の揺れに酷似していたから、同じようなチェアタイプであろうと想像していた。
このチェアタイプのマッサージ機をイメージして書いたのであるが、それを受けて管理組合がAに電話したとき、このBが書いた「電気マッサージ機(チェアタイプ)」をどのようにAに伝わったのかはしらない。
その意味で、管理組合からの電話でAが描いた「電気マッサージ機」は、どのようなタイプだっただろう。
その後AにあてたBからの 1通目8月31日(土)、 2通目9月19日(木)、 3通目9月21日(土)の手紙には、「電気マッサージ機」などマッサージ機の固有名詞は一切、書かなかった。そのうえで振動(揺れ)させないで、とAに依頼した。
そしてBは、4通目の手紙では、Aに私Bは、チェアタイプの家庭用電気マッサージ機器をAがしようしていることを認識しているそのつもりで、イメージを容易にするため、電動椅子という表現にした。
しかもこの日9月23日(祝)、4通目の手紙で,先述したように初めて電動マッサージ機器に触れ、「 … 今後一切電動椅子のスイッチは入れないと約束してください。 … 9月23日中に、ご返事を新聞受けに投函してください。」と、回答を求めた。
これに応えたAは、「
B様
約束の件 ですが、
私は「電動椅子」使用・ 所持して
おりません
ご不信であれば 社会的に信頼出来る
方に 証明してもらえますので
2024.9.23 8:50 206Aの署名
」と手描きされたメモをB宅に投函した。
このメモを見て驚いた。
私Bがこのメモを書くとすると、1 ~ 2行で書き上げるところ、 本文を5行に分けて書いているところにである。
良い意味で、この人は要注意人物だ、と感じた。一筋縄では行かない相手だということである。
余程慎重にやらなければ、上げ足を取られる危険を感じる。
回答を本日中にと要求したBに対して、Aが「持っていない」と意思表示したのは、7月4日(木)以来であるが、振動(揺れ)を発生させている電動機器を9月23日(祝)初めて、電動椅子という固有名詞で返して来た。
しかし、Aは、「持っていない」の前に、「使用していない」ことを強調する意味で、「おりません」を下部に移動させて表現している。
つまり、「所持」よりも「使用」が要点で、「電動椅子は使用していない」を先ずは主張した。何故なら、「持っていない」から云々 、との文脈である。
もちろん、電動椅子は、私Bが先に 書いて、その回答を求めた関係で言えば、取り立てて言うまでもないのであるし、Bが「電動椅子」と言ったから、Aも「電動椅子」を用いたと、疑いもなくしばらくの間、そう思っていた。
「電動椅子は使用していない。何故なら、持っていないから」となる。
そして、電動椅子は、私Bが回答を求めて書いた手紙で、電動椅子としたのにたいし返事した電動椅子であるが、改めてある日私は「電動椅子」使用・所持しておりませんのメモを見た時、電動椅子が、括弧(「」)で閉じられていることに関心を持った。
なぜ「電動椅子」と、「カッコ」でくくったか。チェアタイプのマッサージ機をイメージしたと私Bと同様に、Aもチェアタイプを想定し、「チェアタイプは持っていないから、電動椅子は、使っていない」としたのではないか。
A特有の減らず口と察した。「電動椅子」すなわち、「電気マッサージチェアは持っていない」と。
仮にAが、チェアタイプの家庭用電気マッサージ機器を使用していたとすれば、過去 3回巡査Kが、家宅捜索する前段階で、外に運び出したとすれば、男二人が抱え込まなければ運べない重さであるから、出し入れ合計 6回実施したことになる。この日がウイークデーであれば、男二人(長男と娘婿)は合わせて有給休暇を取っていなければ、それができない。これは現実的ではないような気がする。
しかも、12月11日(水)午後 3時35分、Aは、B宅にやって来て、「1階や 4階がやっていないか確認しましたか」と、他人事のように言った。Aは、「電動椅子は、使用所持しておりません。」
だから揺すっているのは私ではありません。どこかのどなたかでしょ」と言わぬばかりに、そう思ったのではないかと思われる節がある。
それは、「電動椅子」使用所持しておりません」のメモ投函以後、稼動は活発にやり始めた。必然的に振動(揺れ)は頻繁に発生し始めた。Aの「電動椅子」のこだわりは、こうした経緯があったのではないか、とも考えた